稽古から帰宅。夕飯は済ませていたのだが,腹が減ったので何かないかと物色。熊本で買ってきた桃太郎トマトの箱詰めを発見。シャワーを浴びている間に少しでも冷えるように,冷凍庫へ投入。
風呂上がりに一気に三個かじりにする。二個の予定だったが,どっかの岩塩を付けて食べていると留まらなくなり,箱の中からあらためてとりだし,三個目となった。気分は,「傷だらけの天使」のオープニング。知っている人は少ないけど,見ていた人は憧れていたはず。ショーケンががっつくコンビーフが旨そうだった…。
腹が減っていたから,熊本のトマトだから,旨かったのではない。清風館での今日の時間の過ごし方が,目に映るものを美しくし,口に入れるものを旨くしている。人間はまさしくイメージの動物だと痛感。
審査会には,審査を受けられない人にも参加(見学)して欲しいと思う。全ての門人の連絡先を把握しているわけではないので,速攻メールという訳にはいかなかったが,アメリカ人門人へのメールを試みた。合気道に来たときは普段着でつきあっているけど,実は凄く偉い人だったりもするので,メールの作法とかも多少は気になる。件名とかも意外と考えこむ。変なタイトルだとSpamと思われるかもしれない?とりあえず翻訳サイトを行き来して,「審査対象ではないけど見に来てね。」という趣旨のメールを送ってみたところである。
今日の稽古では,審査を受ける方の受けを務めた。誰にでもつまずきはあるのは当然としても,一つひとつの技にキラリと光る部分もちゃんと持っている。そういう箇所を発見することができるようになったことが,私にとっての審査課題には明記されていない課題だと思う。個人としては運動量は少なかったが,受けや見取りの中でたくさん得るものはあった。
審査会の申し込みをすまされた方の大半は夕方からの自主稽古にも参加される。その気持ちを真っ向から受ける時間にしたいと思う。ちなみに,午前中は子どもたちの稽古をやっているので,夕方からでは心配だという方は,朝からも参加ください。自分の稽古時間も若干は確保できると思います。
稽古した後は旨いのだ
昨日の続き。「遊び」について考えた
日中にNさんからメール。合氣新道のポスターをスーパーに掲示しに行かれたことがわかる。貼り付けている最中に「いじめの被害にあっている子どもを道場に行かせたいが,いいだろうか。」と尋ねられたことも記されていた。
いじめの対象になっている子どもさんが,入門を希望されることもある。現実に,うちの子どもたちの親御さん達からは,その手の悩みを聞かされてきた。
別に合気道がいじめに即効性があるわけではないと思う。四方投げや小手返しを身につけることでいじめが解消されるほど世の名は簡単ではないことは誰もがわかっている。また,合気道を通じて一般的な心の成長をねらうこともできるだろうが,これも一朝一夕にはいかない。
しかし,学校という年齢による輪切りの空間を離れて,道場という異質な空間に身を置いてみることは有意義であるといえる。年齢も性別も立場も異なる人間と交わり,教室や世間一般と異なる価値観に基づいて協働している場所に参画することは,行き詰まった青少年にとってまさしく活路につながる新しい道の存在を示唆するだろう。
それでも,無理を進めるつもりはない。肌に合わない「遊び」も世の中にはごまんとある。
道場での「遊び」というのは思っているより,ローリスクな遊びだと思う。リターンの大きさは人それぞれの価値観だから何とも言えない。しかし,道場で武道をしなければ生きていけないということは全くないので,そういう意味で既にローリスクだ。
口に合わなければ吐き出せばいい。吐き出しても少なくても現状は維持できる。入会金や月謝なそ微々たる出費はあるかもしれないが,痛手と呼ぶ程度のものではない。時間とか地位とか財産とか家族とか,新たな参加者がリタイヤしても人生から何かを引き算されることはないのだ。
時節がらオリンピックのダイジェストをニュースその他で目にする事も多い。選手達のガッツポーズや雄叫び。日常生活の中であそこまで歓喜の瞬間を感じることはない。見ているものも感動はするが当事者のそれにははるかに及ばない。当たり前。
彼らを腹の底から吠えさせる喜び。それは,ハイリスクハイリターンの勝負に勝ったからこそわき起こってくるのだ。雄叫びをあげられずに静かに涙する者のほうが遙かに多いし,参加の機会すら与えられず人生を棒に振ってしまう人間の方がまだまだ多いのである。長い年月をかけて禁欲的にスポーツに取り組んできた人間が,五輪という大舞台でやっと手にすることのできるリターンに対して,自ずと咆哮が生まれるのである。
そんな世界と比較すると,あらためてローリスクな遊びの中にいることがわかる。仕事の時間を割き売り上げを落とし,健康を害するまでのめりこんでいる門人は少ないだろう。
不謹慎な例えだが,今回の審査は,「いつもよりもう一枚コインを多くベットしてみるか否か。」ということを突きつけられていることに等しい。普段よりも(本当は普段からだけど)さらに時間を割き,汗を流す。価値観を異にする者から見れば,一般社会で働いていれば金銭を生むであろう身体を,稽古時間に充てるということは実に無駄なことだ。そのことを別の言い方で「過程」と行っても良いと思う。何を思い,何のために時間と労力を費やしてきたのか?あるいは費やさなかったのか?
先に書いたNさんは,ポスターを貼るという行為で,運営に参画している。Nさんなりの時間と労力の消費であり,参画者として小さなコインを一枚追加したに等しい。
ポスターを貼っても誰も入門するとは限らない。技も上手にならないし,昇級にもつながらない。しかし,自らの今後の成長に対しての喜びは,必然大きくなる。もちろんそんなことを事前に意識して行動している訳でもないし,本人としても何も気づくことはないだろう。
人それぞれコインの形は違う。Nさんのような形のコインもあるし,ただひたすらに技を追求してきたというコインもあるだろう。どんな形であれコインを一枚追加することで楽しみは増してくる。
北島や吉田の咆哮のようなハイリターンはおこがましいけれど,ジャックポットの瞬間というのは誰にでも訪れる。せっかく「遊び」に参加するのならば,コインは使ったほうがドキドキ感も増す。審査という節目が終わったとき心の中で「オーッ!」て吠えることもできる。
いじめの対象になっている子どもさんが,入門を希望されることもある。現実に,うちの子どもたちの親御さん達からは,その手の悩みを聞かされてきた。
別に合気道がいじめに即効性があるわけではないと思う。四方投げや小手返しを身につけることでいじめが解消されるほど世の名は簡単ではないことは誰もがわかっている。また,合気道を通じて一般的な心の成長をねらうこともできるだろうが,これも一朝一夕にはいかない。
しかし,学校という年齢による輪切りの空間を離れて,道場という異質な空間に身を置いてみることは有意義であるといえる。年齢も性別も立場も異なる人間と交わり,教室や世間一般と異なる価値観に基づいて協働している場所に参画することは,行き詰まった青少年にとってまさしく活路につながる新しい道の存在を示唆するだろう。
それでも,無理を進めるつもりはない。肌に合わない「遊び」も世の中にはごまんとある。
道場での「遊び」というのは思っているより,ローリスクな遊びだと思う。リターンの大きさは人それぞれの価値観だから何とも言えない。しかし,道場で武道をしなければ生きていけないということは全くないので,そういう意味で既にローリスクだ。
口に合わなければ吐き出せばいい。吐き出しても少なくても現状は維持できる。入会金や月謝なそ微々たる出費はあるかもしれないが,痛手と呼ぶ程度のものではない。時間とか地位とか財産とか家族とか,新たな参加者がリタイヤしても人生から何かを引き算されることはないのだ。
時節がらオリンピックのダイジェストをニュースその他で目にする事も多い。選手達のガッツポーズや雄叫び。日常生活の中であそこまで歓喜の瞬間を感じることはない。見ているものも感動はするが当事者のそれにははるかに及ばない。当たり前。
彼らを腹の底から吠えさせる喜び。それは,ハイリスクハイリターンの勝負に勝ったからこそわき起こってくるのだ。雄叫びをあげられずに静かに涙する者のほうが遙かに多いし,参加の機会すら与えられず人生を棒に振ってしまう人間の方がまだまだ多いのである。長い年月をかけて禁欲的にスポーツに取り組んできた人間が,五輪という大舞台でやっと手にすることのできるリターンに対して,自ずと咆哮が生まれるのである。
そんな世界と比較すると,あらためてローリスクな遊びの中にいることがわかる。仕事の時間を割き売り上げを落とし,健康を害するまでのめりこんでいる門人は少ないだろう。
不謹慎な例えだが,今回の審査は,「いつもよりもう一枚コインを多くベットしてみるか否か。」ということを突きつけられていることに等しい。普段よりも(本当は普段からだけど)さらに時間を割き,汗を流す。価値観を異にする者から見れば,一般社会で働いていれば金銭を生むであろう身体を,稽古時間に充てるということは実に無駄なことだ。そのことを別の言い方で「過程」と行っても良いと思う。何を思い,何のために時間と労力を費やしてきたのか?あるいは費やさなかったのか?
先に書いたNさんは,ポスターを貼るという行為で,運営に参画している。Nさんなりの時間と労力の消費であり,参画者として小さなコインを一枚追加したに等しい。
ポスターを貼っても誰も入門するとは限らない。技も上手にならないし,昇級にもつながらない。しかし,自らの今後の成長に対しての喜びは,必然大きくなる。もちろんそんなことを事前に意識して行動している訳でもないし,本人としても何も気づくことはないだろう。
人それぞれコインの形は違う。Nさんのような形のコインもあるし,ただひたすらに技を追求してきたというコインもあるだろう。どんな形であれコインを一枚追加することで楽しみは増してくる。
北島や吉田の咆哮のようなハイリターンはおこがましいけれど,ジャックポットの瞬間というのは誰にでも訪れる。せっかく「遊び」に参加するのならば,コインは使ったほうがドキドキ感も増す。審査という節目が終わったとき心の中で「オーッ!」て吠えることもできる。
どうせ遊ぶんなら
祖母の初盆のため,昨日まで阿蘇で過ごす。見晴らしのいい公園から,阿蘇の雄大な山並みを眺めていると,Sさんから電話。夏の武道修行で気づいたことを,盛りだくさんに話される。ますます,気合いが充実されている様子。30年近い武道歴だが,常に謙虚にそしてひたむきに稽古に向き合う姿勢に感服する。
今を懸命に生きることが結局は未来を大切に生きること。今日の稽古にひたむきに取り組むことが,明日,明後日,来月,来年,永劫に続く時間を大切に過ごすことにつながるだろう。
昨日は,豪雨の中を6時間近く運転に費やしたため,今朝はさすがに身体がきつい。しかし,道場でG兄弟の姿を見ると,俄然疲れが吹き飛ぶ。大人だけの稽古だったら,逆に甘えが出てしまったかもしれないが,子どもには中途半端な姿は見せられない。疲れが吹き飛ぶのはやせ我慢の仕業かもしれないが,汗をだらだら流して稽古することで,身体もすっきりした。
稽古では,審査技の確認。Sさんも嬉野からの参加。TさんはNさんの受けに終始。本当に感謝。G兄弟は師範から「見て盗め」と言われていることもあり,大人の技をよく見ている。いつだって師範に負けない位の大きな目がギョロッとこちらを見つめているのだ。
恩着せがましい言い方になるが,技術は「見て盗む。」と言うことを知っただけでも,子どもにとっては大収穫。これからの生活や勉強にも活かされることだろう。
何度も書いたが,師範は畳の上の技は遊びのように言われる。しかし,思いっきり遊ばなくては遊びの醍醐味はわからない。思いっきり遊びもしないで,遊んだつもりになって語ってはいけない。自戒の意味を込めてそう思う。
だから,審査というさらにくだらない遊びに対しても,子どものように夢中になったり追われたり,一喜一憂することが大切だと思う。社会的地位にも金銭にも関係のない,「時,事,人との関わり」そこにわざわざ首をつっこんだからには,腹一杯遊ぶことにする。
審査表や申し込みをわざわざ作ったり,印鑑を作ったり,印可状のお盆が寄贈されたり…
缶蹴りでも見つからないようにそーっと隠れて過ごすことより,リスクを背負って缶を蹴りに行った方が,失敗しても楽しかったはず。
どうせ遊ぶんならど真ん中で遊んだ方が楽しさが増すことにあらためて気づいた。
今を懸命に生きることが結局は未来を大切に生きること。今日の稽古にひたむきに取り組むことが,明日,明後日,来月,来年,永劫に続く時間を大切に過ごすことにつながるだろう。
昨日は,豪雨の中を6時間近く運転に費やしたため,今朝はさすがに身体がきつい。しかし,道場でG兄弟の姿を見ると,俄然疲れが吹き飛ぶ。大人だけの稽古だったら,逆に甘えが出てしまったかもしれないが,子どもには中途半端な姿は見せられない。疲れが吹き飛ぶのはやせ我慢の仕業かもしれないが,汗をだらだら流して稽古することで,身体もすっきりした。
稽古では,審査技の確認。Sさんも嬉野からの参加。TさんはNさんの受けに終始。本当に感謝。G兄弟は師範から「見て盗め」と言われていることもあり,大人の技をよく見ている。いつだって師範に負けない位の大きな目がギョロッとこちらを見つめているのだ。
恩着せがましい言い方になるが,技術は「見て盗む。」と言うことを知っただけでも,子どもにとっては大収穫。これからの生活や勉強にも活かされることだろう。
何度も書いたが,師範は畳の上の技は遊びのように言われる。しかし,思いっきり遊ばなくては遊びの醍醐味はわからない。思いっきり遊びもしないで,遊んだつもりになって語ってはいけない。自戒の意味を込めてそう思う。
だから,審査というさらにくだらない遊びに対しても,子どものように夢中になったり追われたり,一喜一憂することが大切だと思う。社会的地位にも金銭にも関係のない,「時,事,人との関わり」そこにわざわざ首をつっこんだからには,腹一杯遊ぶことにする。
審査表や申し込みをわざわざ作ったり,印鑑を作ったり,印可状のお盆が寄贈されたり…
缶蹴りでも見つからないようにそーっと隠れて過ごすことより,リスクを背負って缶を蹴りに行った方が,失敗しても楽しかったはず。
どうせ遊ぶんならど真ん中で遊んだ方が楽しさが増すことにあらためて気づいた。
頭で考えることによる居着き
今年度二人の祖母が相次いで他界した。自ずとお経をよむ機会が増える。法事の際には,うちの子も親類の子も,お坊さんから「般若心経」をいっしょに唱えるよう求められる。
私も,子どもの時は同じお坊さんに勧められ「般若心経」を唱えていたことを思い出す。大人でも理解できないお経のフレーズに,娘が興味を持ち挙げ句の果てに「どんな意味?」と聞いてくる!
以前何冊か解説の本を読んでいた記憶を必死にたぐり寄せながら,子供だましの回答をする。
再度,尋ねられないうちに復習をしておこうと思い,以前読んだ「般若心経講義」紀野和義 PHP文庫をペラペラめくる。
「観自在」について書かれている所をよんだときに,妙に納得する文章があったので,以下に引用。
稽古での居着きは,きちんとしたい・こうしなければいけないなど頭が先に走ってしまうことによって引き起こされる。昨日の稽古に参加された方は師範がくり返し同じことを言われたことを記憶していると思う。
「考えてはいけない。」どうせたいした頭は持っていないのだ。自分の身体,そして日々の稽古を信じて動いた方がよっぽど言い動きができるだろう。しかし,相手と向き合ったとたんに様々な言葉や動きのイメージを頭が先に捉え始め,身体が萎縮してしまう。焦り,不安。
加えて,先の引用の中で,注目したいのは「事態の解決に"一番いい記憶"を引き出してきて…」の"一番いい記憶"という箇所。
"一番いい記憶"を得るために道場では,限定された状況を作り型の稽古をするのではなかろうか。
身体の記憶を信じる。そのためには,記憶につながる稽古の在り方が求められるし,それなりの反復が必要なのだろうと思う。身体は賢いはずなのに,愚かな頭がブレーキをかけるのだろう。
道場での稽古のことを考えていると,師範が「道場は遊び」と喩えられることも思い出される。道場では同門という旧知の限定された人間によって稽古がくり返されることになる。そこでは,当然ながら相手を不快にさせるような言動や死に至らしめるまでの攻撃などは,マナーやルールとして取り除かれている。
ところが,本番である現実の社会では不特定多数の集団の中に放り込まれる。いつ誰が敵となるかは想定できない。法的な手段も含めて,徹底的に相手をつぶすということを前提にした敵が現れないとも限らないし,意に反して道場では考えられないほどの多人数掛けに巻き込まれてしまうこともあるだろう。
窮地を生き抜くための"一番いい記憶"を作るために存在する道場での稽古に必要以上に悩んだり腰が引けたりしていては,現実の窮地を乗り越えることはできない。
本当の窮地は,いつも不意に現れるし,同時に多方向から訪れることするある。その時に,頭で考えていたら間に合わない。身体は居着いてしまう。
言うのは簡単だけど,頭で考える世界から脱却するのは難しい。ひたすら稽古。ひたすら。そんなことがこれまた難しい。
私も,子どもの時は同じお坊さんに勧められ「般若心経」を唱えていたことを思い出す。大人でも理解できないお経のフレーズに,娘が興味を持ち挙げ句の果てに「どんな意味?」と聞いてくる!
以前何冊か解説の本を読んでいた記憶を必死にたぐり寄せながら,子供だましの回答をする。
再度,尋ねられないうちに復習をしておこうと思い,以前読んだ「般若心経講義」紀野和義 PHP文庫をペラペラめくる。
「観自在」について書かれている所をよんだときに,妙に納得する文章があったので,以下に引用。
人間がある状態に追いつめられたときに,自分では何も考えようとしていないのに(それは,実は考えないからいいのであるが,)「いのち」が自動的に「イメージ記憶」の中を駈けめぐって,事態の解決に一番いい記憶を引き出してきて,自分に行動させる,こういうことができるのを「観自在」というのだ。
稽古での居着きは,きちんとしたい・こうしなければいけないなど頭が先に走ってしまうことによって引き起こされる。昨日の稽古に参加された方は師範がくり返し同じことを言われたことを記憶していると思う。
「考えてはいけない。」どうせたいした頭は持っていないのだ。自分の身体,そして日々の稽古を信じて動いた方がよっぽど言い動きができるだろう。しかし,相手と向き合ったとたんに様々な言葉や動きのイメージを頭が先に捉え始め,身体が萎縮してしまう。焦り,不安。
加えて,先の引用の中で,注目したいのは「事態の解決に"一番いい記憶"を引き出してきて…」の"一番いい記憶"という箇所。
"一番いい記憶"を得るために道場では,限定された状況を作り型の稽古をするのではなかろうか。
身体の記憶を信じる。そのためには,記憶につながる稽古の在り方が求められるし,それなりの反復が必要なのだろうと思う。身体は賢いはずなのに,愚かな頭がブレーキをかけるのだろう。
道場での稽古のことを考えていると,師範が「道場は遊び」と喩えられることも思い出される。道場では同門という旧知の限定された人間によって稽古がくり返されることになる。そこでは,当然ながら相手を不快にさせるような言動や死に至らしめるまでの攻撃などは,マナーやルールとして取り除かれている。
ところが,本番である現実の社会では不特定多数の集団の中に放り込まれる。いつ誰が敵となるかは想定できない。法的な手段も含めて,徹底的に相手をつぶすということを前提にした敵が現れないとも限らないし,意に反して道場では考えられないほどの多人数掛けに巻き込まれてしまうこともあるだろう。
窮地を生き抜くための"一番いい記憶"を作るために存在する道場での稽古に必要以上に悩んだり腰が引けたりしていては,現実の窮地を乗り越えることはできない。
本当の窮地は,いつも不意に現れるし,同時に多方向から訪れることするある。その時に,頭で考えていたら間に合わない。身体は居着いてしまう。
言うのは簡単だけど,頭で考える世界から脱却するのは難しい。ひたすら稽古。ひたすら。そんなことがこれまた難しい。
いい笑顔が見たい
稽古から帰りテレビをつけると,谷本選手のゆるゆるの笑顔。金メダルを取った後の,インタビューが行われていた。
さっきまで勝負をしていた人とは思えないほどの笑顔。歓喜と同時になんとも言えない安堵感も伝わってくる。大きな仕事をした後の達成感。自分もこんな顔ができるように頑張りたいと思う。それと同時に,周囲の人が,こんなに素晴らしい顔をする時に居合わせたいとも思う。
審査会も近い。谷本選手の偉業とは比較はできないだろうが,門人一人ひとりが達成感・満足感のある瞬間を創りたい。
今日の稽古では,審査を受ける方々の受けを務めた。熱心に稽古に励まれているので,みなさん以前からすると格段に技が上達していた。師範が言われる。「過程の大切さ」という点においては,素晴らしい足跡を残しつつあるのではなかろうか。
最後に菊美嬢と審査技の復習。取りをしたときに思ったのは,自分の呼吸ではなく相手の動きに合わせすぎということ。やや焦り気味に技を展開している。本来は,相手の中心を押さえ,相手に合わせて導いていくべきなのだろうが,二教や三教では「関節を極める」ことで相手を押さえるような次元の技にとどまってしまっていた。
結果的に,非常にイタイ思いをさせてしまった。以前は四方投げや小手返しも,「ひねる」ことで相手を崩していると誤解していた。その辺の修正には努めてきたつもりだったが,今日の二教や三教は,痛めることで相手を制するレベルになってしまっていた。
間合いと呼吸のアンバランス。
稽古終了後に師範から,審査申し込み用紙が配られた。申し込み用紙には,簡単な設問が書かれている。試験ではなく申し込むときに,記入して提出することを求めている。申し込み部分は私,設問は師範が書かれた。
カンニングや先輩へ尋ねることは自由。この機会に,みんなが共通して理解しておくべき項目を押さえておきたいから,テストではない。
道場の角印も届いた。ちょっとずつちょっとずつ前に進む。
さっきまで勝負をしていた人とは思えないほどの笑顔。歓喜と同時になんとも言えない安堵感も伝わってくる。大きな仕事をした後の達成感。自分もこんな顔ができるように頑張りたいと思う。それと同時に,周囲の人が,こんなに素晴らしい顔をする時に居合わせたいとも思う。
審査会も近い。谷本選手の偉業とは比較はできないだろうが,門人一人ひとりが達成感・満足感のある瞬間を創りたい。
今日の稽古では,審査を受ける方々の受けを務めた。熱心に稽古に励まれているので,みなさん以前からすると格段に技が上達していた。師範が言われる。「過程の大切さ」という点においては,素晴らしい足跡を残しつつあるのではなかろうか。
最後に菊美嬢と審査技の復習。取りをしたときに思ったのは,自分の呼吸ではなく相手の動きに合わせすぎということ。やや焦り気味に技を展開している。本来は,相手の中心を押さえ,相手に合わせて導いていくべきなのだろうが,二教や三教では「関節を極める」ことで相手を押さえるような次元の技にとどまってしまっていた。
結果的に,非常にイタイ思いをさせてしまった。以前は四方投げや小手返しも,「ひねる」ことで相手を崩していると誤解していた。その辺の修正には努めてきたつもりだったが,今日の二教や三教は,痛めることで相手を制するレベルになってしまっていた。
間合いと呼吸のアンバランス。
稽古終了後に師範から,審査申し込み用紙が配られた。申し込み用紙には,簡単な設問が書かれている。試験ではなく申し込むときに,記入して提出することを求めている。申し込み部分は私,設問は師範が書かれた。
カンニングや先輩へ尋ねることは自由。この機会に,みんなが共通して理解しておくべき項目を押さえておきたいから,テストではない。
道場の角印も届いた。ちょっとずつちょっとずつ前に進む。

